【真田丸】大河ドラマクライマックスの出城での戦い
2016/11/27
Table of Contents
真田丸とはどんなもの
豊臣方の武将たち
真田丸(さなだまる)は、1614年(慶長19年)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城平野口の南に構築した曲輪(くるわ)とよばれる出城の名称なのです。
曲輪とは門、兵、櫓で武装した大坂城から1kmぐらい離れた場所にあり、主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていた。戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯した。
真田丸 出城での戦い
幸村の軍略の全てが詰まった出城・真田丸。
まず徳川軍も待ち構えるのはまず馬防柵・・・この柵により騎馬隊をくいとめる
柵を超えるとつぎは空堀・・・ここ空堀のには内部にも仕掛けがありそこらじゅうに大小無数の杭が打ち込まれ簡単には突破できない仕掛
立ち止まろうものなら櫓から鉄砲隊の餌食になると言う。
壁・・・壁は2階建てほどの高さで上からは鉄砲隊に狙い撃ちの的となる
真田丸 場所
軍事的意義
通常の大坂城弱点補強説
惣構との連携を背景にした拠点説
「城外孤立」の砦として敵を集中させ撃破する攻めの拠点説
出典グーグルマップ
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真田丸 周辺の名所
三光神社
真田の抜け穴
大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城(えんげつじょう)と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと言い伝えられ今なおその跡を三光宮鎮座の階下にあり。
出典 wikiペディア
真田幸村の像
真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像(イラストレータ成瀬浩一デザイン)を建立(昭和62年5月5日)、その台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(名付けて真田石)が置かれている。
どんどろ大師
善福寺
鏡如庵大師堂(きょうにょあんだいしどう)は、宝暦2年(1752年)3月に高野山岩本院 法資法道が大坂夏の陣(元和元年・1615年)の戦死者の霊を弔うために創建されたと言う。鏡如庵とも称する。鏡如庵大師堂のあった付近は、大坂冬の陣(慶長19年・1614年)では、真田幸村が真田丸を築き、激戦があった。大坂冬・夏の陣ともに激戦地であった。